開所礼拝説教

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Miyagi Sendai / Fukushima Iwaki Plant food radioactivity measurement

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保科 隆 所長

開所礼拝の様子
「東北ヘルプ・原発関連の被災支援」


讃美歌 298

聖書イザヤ書42:1~4
見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、
喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ
彼は国々の裁きを導き出す。

彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。

傷ついた葦を折ることなく
暗くなてゆく灯心を消すことなく
裁きを導き出して、確かなものとする。

暗くなることも、傷つき果てることもない
この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。


説教 「灯心を消すことなく」
仙台食品放射能計測室所長 日本基督教団 仙台東一番丁教会牧師 牧師 保科隆

日本基督教団 仙台東一番丁教会牧師 牧師の保科と申します。
初めての方もいらっしゃるかもしれませんが、私は仙台の地に来て5年になります。2007年の4月から仙台に参りました。現在、いろいろな委員会の委員をさせていただいておりますが、数えるとたくさんの役割があり今回こういった形で食品放射能の計測所の所長の依頼を受けました。私でできるかな?という思いを持ちましたけれども、引き受けさせていただきまして、今回の震災に関連した役割については断らずに引き受けたいという風に思っております。自分の能力も大したものも持っておりませんけれども、できる限りやれることはやらせて頂きたいと思っております。 

朝日新聞の月曜日の記事の中に「朝日歌壇」というものが載っています。
4人の選者いて、1人の方が10ぐらいの短歌をのせ合計40くらいの歌が載っていますが、少し短い批評がのっています。わたくしも時に読んでいます。だいぶ前になりますが、福島の原発以降しばらくたってから、ある方が朝日歌壇に歌を載せていました。
こういう歌です。

ただじっと 息をひそめている窓に 黒い雨降る ふるさと悲し

この歌を作った人は年齢もどこにお住まいかも今は覚えておりませんが、おそらく福島にお住いで今はどこか自分の家を離れて避難している方ではないかと思います。

「黒い雨」ですが、作家に井伏鱒二という方がおられまして、「黒い雨」という小説を書いております。広島の原爆を扱った作品で放射能の雨が黒い雨という風に言っています。この井伏さんの「黒い雨」という小説は黒い雨を浴びてしまった被爆者のひとりが主人公。その方の生活をつづった作品です。朝日歌壇の歌を歌った方は同じような黒い雨が降っているために、我が家へ帰ることができない。我が家ことを思い浮かべながら作った歌であろうと思います。
ただ「悲し」とひと言です。ですがただ悲しいだけではなくいろいろな思い、不安であるとか孤独であるとか、あるいは憤りであるとか、そういうものがみんな「ふるさと悲し」という言葉に込められてると私は思いました。

今回の福島の原発事故以降の影響が如何ばかりなものかということを歌ったひとつの歌です。

先ほど、旧約聖書のイザヤ書42章1節から4節を読みました。
主の僕の歌、あるいは苦難の僕の歌と呼ばれています。そして、この苦難の僕の歌は全部で4つあり、最初のものがイザヤ書42章の1節から4節になります。もう一度読んでみます。

見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、
喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ
彼は国々の裁きを導き出す。

彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。

傷ついた葦を折ることなく
暗くなてゆく灯心を消すことなく
裁きを導き出して、確かなものとする。

「彼は」というのは主の僕です。苦難の僕です。
主の僕は、「叫ばない、呼ばわらない、声を巷に響かせない」とあります。そういうことでどうして自分の思いを人に伝えることができるだろうか?と思うかもしれません。
もっと町へ出て行って、声を巷に響かせなければ自分の考えることを伝えられないのではないか?誰しもが思います。確かにそういうこともあると思います。実はイザヤが生きていた時代は紀元前6世紀頃になりますが、当時ペルシャという大帝国があり、ペルシャの王様はクロスという王様ですが、クロス王の支配が念頭に置かれているのではないかと言われています。それはどういうことかというと、この(聖書箇所の)反対になります。「叫んで、呼ばわって、声を巷に響かせて」支配していた。それはペルシャの支配であり、クロス王の支配です。そういうものを見ていたので、主の僕は反対に、「叫ばない、呼ばわらない、巷に響かせない」そういう風にしてこの世界を支配する、そういう方がいることを示し、そこにはなにも華やいだものはなく、むしろ弱い者を支える僕、あるいは死に瀕しているものを支えるその僕の姿を浮かび上がらせているのだと思います。

例えば新約の使徒言行録の8章に出てくるピリポという伝道者がエチオピアの高官に洗礼を授ける話があります。それによりますと、イザヤ書が読まれている。そしてそのイザヤ書53章の中にある苦難の僕はキリストのことですといって解き明かしています。

ですからイザヤ書でいう主の僕とはキリストであり、キリストの支配がここで予言されているということになります。

食品放射能計測所を開所するという礼拝の中で、私はどんなみ言葉を用意したらよいかと考えましたが、このイザヤ書42章の苦難の僕、主の僕の姿を思い浮かべ、そしてそれはキリストの姿だと思い、私たちもキリストに従って歩み、この計測室の営みもそのようなものとして導かれていきたいと思います。

暗くなっていく灯心を消すことがない。「灯心」。ろうそくの明かりは消えるとき明るくなります。消えかかっているけれど消えない。そういう光、灯の働きをこの計測室が担っていければ良いと思っています。

祈祷
讃美歌 387